今年一番良かった映画は?と聞かれて、無条件にこれ、と薦められる映画に出会った。
李安監督の「色、戒」だ。
まず配役がよかった。主役は伝統的な女性の美というものについての想像を促す湯唯。そして、相手役は梁朝偉だ。「無間道」でもそう思ったが、苦しい状況におかれ、ひそかに矛盾に苦しみながら、それでも果断に振舞う男性、というものを演じると非常にはまる俳優だと思う。
脚本も良かった。主人公は、芝居という架空の場所から、ひょんなきっかけできな臭い社会に飛び込むことになった学生たち。反日運動に燃える若者、女スパイを通じた対日協力者の暗殺計画、というものを正面から描きながら、日本人でもここまですんなり受け入れられる映画というものがあることに感心した。
戦争の下にある侵略者と被侵略者という政治的な関係を、見事に男女の関係、愛や性の関係に転換というかスライドさせていく巧みさ。私は唖然としつつも、心では、ああ、やっと出会えた、という気分だった。自分がずっと考えていた問題に、ここまで明快な答えを与えていた作品があったのか、と。
かつて、ある著名な中国の男性現代アート作家が私に聞いたことがある。「日本人は、結局のところは中国人を見下しているのだろう」と。私はそのとき、「人による」と答えるしかなかった。当然のことながら、中国にも優秀な人間は山ほどいるし、日本人にも決して褒められない人間はたくさんいる。でも、中国に対する日本人の態度、反応を数多く見ている身としては、その芸術家の疑問は当然あり得るものだ思えた。でもそれと同時に、今の中国でこの問題を論じることにそれほど意味はあるのだろうか?と思ったのも確かだ。今、中国で日本人が制度的に優遇されている訳ではないから。
そして、私はその芸術家に聞き返してみたくなった。「男は結局のところは女を見下しているのでは?」と。さて、どんな反応をするだろうか?
差別と被差別の問題は、マスの問題としても、個の心理的問題としても、常に存在する。でも、マスの差別を肯定或いは否定して、それが実はどうあるべきか、と論じたとしても、個の差別がなくなるわけでは決してない。これは、私がアメリカ生活などから得た印象。もちろんこれは制度上の差別が無い前提でのことだが、個の人間同士は、互いの差の有無を知り、互いの距離を知り、その差が越えられること、または越えられないことを知る、ということを積み重ねるしかないんじゃないだろうか。少なくとも、積み重ねたあと、やっと何かを言えるのだ。その上で、お互いが共存できると思う人は一緒にいればいいし、思わない人は距離を保てばいい。
話が暴走して恐縮だが、何はともあれ、「色、戒」の脚本は、原作に弱いストーリーの部分を補いつつ、でも原作の要所は逃さず、しかし、さまざまな想像を残すようにしているものだった。
大まかなストーリーを言えば、対日協力者である男に対し、その暗殺を手助けする目的で近づいた女は、最後に男が自分を心から愛していることに気づく。そして、自分の身を破滅させることになるのを知りながら、男を暗殺者の手から逃がしてしまう。最後に、男はやむを得ぬ政治的立場から、女とその仲間の処刑を命ずる、というもの。
そんなドラマチックなお話だが、脚本の流れのおかげで、作り物めいた感じは残らなかった。そして、印象としては、原作の方が男も女も残酷だ。男が女の処刑を命ぜざるを得ないシチュエーションにあるのは原作も映画も同じだが、原作では、男は女を殺すことで女が永遠に自分だけに所属することになるのを意識している。また、女についていえば、映画では男にだんだんと心を奪われているのが何となく伝わってくるが、原作では最後の最後まで、女は男を愛してはいない(と自分で信じている)。
話に聞くと、李安監督は感情のとても豊かな人だということで、そこらへんが最終的に原作の残酷さを和らげた表現を生んだのかもしれない。
因みに、原作者は中国の女性作家の中で大きな人気を誇る張愛玲。もっとも、それは近年になってからのことで、長い間、中国での張愛玲に対する評価は低かった。張の最初の夫は戦時中に日本に協力した人間であり、また作品ではブルジョワ社会が多く描かれ、おまけに反共色の濃い作品も残しているかららしい。
中国の文学について必死でいろいろ学び始めていた頃から、その作品には魅かれていた。読解には苦労したが、分からなくても、好きだった。美しい文章だと思ったからだ。今読み返しても、ちゃんと意味を汲み取れているという自信はもてない。胡同の空気を吸ってみないと、老舎や劉一達の作品が分かりづらいように、1930、40年代の上海の空気を知らないと、本当には分からない気がしてしまう。それでも、魅かれる。不思議なものだ。
だから、中国文学を研究しはじめた頃、ロサンゼルスで張愛玲が亡くなったことを知って、かなり衝撃を受けたのを覚えている。ひどく孤独な死だったと聞いた。当時、1990年代半ばといえば、李安監督にとってみれば、ハリウッドでだんだんと頭角を現し、更なる発展を狙って頑張っていた時期だ。李安氏が同胞の著名作家の孤独な死をどう受け止めたか、想像は膨らむ。新聞の報道では、この「色、戒」について、衝動にかられ、「自分でも訳のわからないうちに撮っていた」と述べているが、張愛玲という作家やその作品に対し、言うに言われぬ思い入れがあったことは想像に難くない。
正直、原作と映画は別物だと私は常日頃は思っているし、同じの方がいいとか悪いとかはそう考えない方だ。でも、この映画に関しては、あまりに伝わってくる何かが「リアル」であったために、ついつっこんでいろいろと考えてしまった。
因みに姜文の「太陽照常昇起」もいい映画だけれど、どうしても欠けていると感じたのがこのリアルさ。それは、リアリズムという手法の問題ではなくて、作品の根本のテーマとがっちり組み合って、真剣にそれを表現しようとする態度ではないか、と思ったりする。
最後に付け加えると、小説、映画ともに、「色、戒」では小物の使い方が秀逸である。男性が女性に贈った指輪。それは、男性の女性に対する愛情の大きさ、力や立場の誇示を示すシンボルとなるだけでなく、男女の関係を結ぶことに、金銭的利益を求める意味があることを偽装する女のもくろみ、愛人として男から代価を求めようとする女心、そして、二人の愛情の結末(与えた側が与えられる側になる)を象徴的に表している。これは、現在の中国でも十分生き生きとしたテーマだ。
そして、タイトルと関連してもう一つ。指輪は中国語で「『戒』指」であることも、無視できないだろう。